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571 【上級】イディオム [上級]

Kemiskinan dan rendahnya tingkat kesehatan telah menjadi _____ setan.
Akibat terkena penyakit, masyarakat miskin produktivitasnya rendah, penghasilan rendah, dan pengeluaran bertambah. Akibatnya orang miskin yang sakit-sakitan sangat sulit memperbaiki tingkat kehidupannya.

A. putaran
B. guncangan
C. bungkusan
D. lingkaran

解答:D
貧困と衛生水準の低さは、悪循環になっている。
病気にかかる結果、貧しい民衆の生産力は低く、収入は低くなり、支出が増える。その結果、病気がちの貧しい人は生活水準を改善することがとても難しい。

lingkaran setan 「悪魔の輪」とは、「悪循環」という意味。英語では vicious circle と言う。
setan はサタン。アラビア語源とのこと。

第二段落は、問題を解くためには不要ですが、わかりやすいので載せておきました。
「輪」になっていることがわかりますね。

他の選択肢
A: putaran 「回転」
B: guncangan 「揺れ」 = goncangan
C: bungkusan 「包み」


コメント(4) 
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コメント 4

アルベルウス ine_go

sakit-sakitanなどの 重複+an の意味って基本的に、どうなるんでしょうかね。

sakit-sakitan 病気がち -->病気にまでではないが、その傾向にある。
tidur-tiduran ゴロゴロする-->寝る状態まで、行かないが、寝る動作と似ている。

これについて、今、少し、考えているんです。重複も やはり、重要ですね。『複数』だけではなく『カテゴリー』『傾向』『頻繁さ』などの意味があります。それぞれの意味は、重複の形の中で、どのように、繋がっているか という趣旨の論文ってありますかね。
by アルベルウス ine_go (2007-02-09 01:44) 

jaman

知りません。
重複は、形態的(morfologi)な研究にとどまっていて、統語的(sintaksis)・意味的(semantik)なところまで進んでないのでは。

(注)
以下、長くて意味不明な話です。まじめに読まなくていいです。

私が考えているのは、接辞を研究するとき、統語的接辞と、語彙的(leksikal)接辞を区別する必要がある、ということです。
それは、単純化すれば、生産性が高いかどうか(produktif)で判断されます。

重複でいうと、単純な重複(例:orang-orang, panas-panas)は基本的に、あらゆる名詞・動詞・形容詞から派生され、生産的です。
しかし、重複-an(sakit-sakitan)、ke-重複-an(kemerah-merahan)は、生産性が低く、ごく一部の語からしか派生しません。

このちがいは、単純な重複は統語的な操作(計算)であるのに対し、「重複-an」のようなものは語彙的で、レキシコン(母語話者の頭の中にあると仮定される辞書)に記載されている、と考えられます。

失語症患者には、規則動詞(=統語的)を失うタイプと不規則動詞(=語彙的)を失うタイプがあるという話があり、統語部門と語彙部門は、脳の別の部分で行われていると想定されます。
言語学的には、核(core)と周辺(peripherical)と考えてもいいでしょう。

たとえば me-kan 動詞は、意味・機能は大きく分けて5つか6つあるわけですが、それらがすべて同じレベルにあり、重要度が同じなのではなく、使役や便宜供与は統語的であり、徹底や道具は語彙的ではないか、と予想しています。
それを裏づける文法的な証拠も、きっとあるはずです。

失語症のインドネシア人には、membangunkan や memanjangkan を覚えているのに、menanamkan や mendengarkan を失っている人がいるかもしれません。

日本語で言うと、「~れる」が受身・「~せる」が使役、というのは、統語的な操作です。
「流れる / 流す」「のびる / のばす」のような自動詞・他動詞のペアは、形態的に、また歴史的に、「れる(=る)」「せる(=す)」と密接な関係があります。
しかし、それらは現代では生産性を失っていて、(現代)日本人はレキシコンに記載しているはずです。

もしそうだとすれば、私たち外国人が me-kan を学ぶときも、「形が同じだから」という理由で、使役と徹底を同時に同じ方法で学ぶことは、必ずしも効率的でない、ということになります。
「形が同じだから」という理由で、「書かれる」「読まれる」と、「流れる」「売れる」を同じものとして扱うのはナンセンスであることを、考えてください。

話を戻すと、ですから、重複を研究するとき、「単純重複」と「重複-an」をひっくるめて考えることは、良くないのではないかと思うわけです。
もちろん、「単純重複」と「重複-an」との間に、共通点はあるでしょう。
でも、それは「書かれる」と「流れる」との間に共通点があるのと同じこと。

レキシコンに記載されている(であろう)語が、同じ形態のもつ意味・機能を探ることは、実はあまり意味がないのです。
まずは、「単純重複」のように、明らかに統語的と思われる現象について考えていくべきだし、それは、第2言語習得や自動翻訳といった実用的な面にも役立ちます。
「重複-an」の例を集め、分類する、というようなのは、価値が低いと思うわけです。
でも、そういうのも私は好きなんですけどね。
by jaman (2007-02-09 03:05) 

jaman

上の文章はもちろん、ine_go さんを批判しよう、というつもりはまったくありません。
読み返してみたら、ひょっとしてそう取られるかもしれないと思ったので、念のためつけたしました。

もし気を悪くされたようなら、あやまります。すみません。
by jaman (2007-02-09 03:15) 

アルベルトウス ine_go

笑。学問には、証拠 と 議論 のみですね。感情が入りませんので、上記のような議論が逆に好きです。反対の意見があるからこそ、マンネリの悪循環から、自分を救える訳ですね。

ある出来上がった体系を学ぶ時に、確かに、jamanさんが、おっしゃる通り、『生産性』をキーワードにして、どのルールが、一番広い範囲に、影響をもたらすか を学び、 その後、どうしても、既存のルールで、アプローチできないものをそのまま覚えるのが、自然 かもしれませんね。

言語学を少し離れて、教育の現場を申し上げますと、実際に、学生が、-kanを学ぶ時に、-kanが付いているモノを 『使役・-してあげる』という意味的範疇に、当てはめようとしています。教えている時に、テクニックとして、出来るだけ、意識的に、『使役・-あいてあげる』という意味的大範疇以外の-kanを言わないようにしています。言うと、なぜか、一人か二人、突っ込む人がいます。

この時に、『学ぶ』過程も、まず、
1.『native母語話者』が 学ぶ過程 
2.『non-native 非母語話者』が 学ぶ過程
を”直感的”(実際にアンケートなど取っていないので)に、分ける必要があるのではないかと思います。

私の経験では、me-kanについて、 (これは、あくまでも経験)学校で、使役と便宜供与 を 教えてくれたのですが、徹底と 道具 は、殆ど、記憶に無いのです。誰かが、教えてくれたら、『あ、そうか!』と納得するぐらいですね。

ただ、例えば、perlu と perlukan また ingin と inginkan そして harap と harapkan は、どのように、解釈すればいいかは、途方に暮れますが、機能的な観点で、受動文から、説明していこうと考えているのですが。

*******************
しかし、一方、i-は、名詞につければ、大体『与える』という意味です(が、例外として、『毛を取る』membului という語があります)が、動詞に付くと、『ー込む・-つける』また、『何度もーする』という意味が発生します。調べてみれば、-i が、『何度もーする』という意味を発生させるのは、くっ付いた動詞のアスペクトが、『一回しかある動作がされない』時です。例えば、menembak は、普段、一回引き金を引くと、一回しか発砲されないから、menembaki は、『何度も』という意が発生する。melempar は、あるモノを投げる時に、投げられるモノを、ある時点に、手から、放すと、動作が終わり。このような動詞に -iがくっ付いたら、「大体(辞書を調べたわけではないので)」、何度もという意が発生します。
 ただ、最近、O先生のお勧めで、PramoedyaのRumah Kacaを読んでみると、以外に、彼は、個人として、私が使っていない「-i」を沢山使います。文学作品なので、それは、PramoedyaのParoleとして、理解すれば良いです。が、面白いことに、membacai という語が、頻繁に出て来て、何回も、読むというのですが、私なら、membaca berulang kali を使います。この時に、Pramoedyaと私の間、『membaca読む』の『指す動作の範囲』がずれていると言えると思います。

******************
ikut-ikutan
tidur-tiduran
sakit-sakitan
buka-bukaan(adegan buka-bukaan: adegan porno)
besar-besaran
kecil-kecilan

が あるにも関わらず 、baca-bacaan が無いんですね。私は、baca-bacaan という社会的な動作が無いから、語が無いのではないかと思いますが。どうでしょうか?
例えば、
ikut-ikutan(尻馬に乗る)の『重複+an』 は、mobil-mobilan(車のおもちゃ)の『重複+an』 と同様の働きを持つと仮定します。..(1)

(1)に従って、『重複+an』は、ikut にくっ付けば、
『実際には、ikut(参加する・くっ付いていく)のではなく、ikutに、似たこと、ikutに近いことをする』=『尻馬に乗る』という意味が発生します。

しかし、問題は、じゃ、なぜ、『baca-bacaan』というのが 無いのか というのです。 私は、baca-bacaan と言う動作が、実生活に無いから、たとえ、その意を表す機能が備えても、そのような動作を作る必要性が無いと思います。 

このように『生産性』を考える時に、『必然性』の理由もどうしても考えてしまうので、結局、『文』や『談話』を超えて、語の意味・文の生産を左右する『社会』も考えざるを得ないのです。

*******
はっはっ。。。書くのを疲れました。
また、jamanさんの意見をじっくりと考えながら、個人研究に活かさせて下さい。
by アルベルトウス ine_go (2007-02-12 04:24) 

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