SSブログ

DMの法則 (4) [正しいインドネシア語]

「DMの法則」の例外

  インドネシア語において、このDMの法則は一つの重要なきまりではあるが、例外がある。インドネシア語には、このDMの法則に違反しているような、語句の構造もある。すなわち、修飾語が被修飾語の前に置かれているものだ。
  この例外は、次のようなものである。

1. 数をあらわしている数詞(kata bilangan)は、一般に、修飾されるものの前に置かれる。
  lima orang 「5人」 / *orang lima
  sepuluh rupiah 「10ルピア」 / *rupiah sepuluh
  seratus ribu 「10万」 / *ribu seratus
  例文:
    Pak Amir mempunyai lima orang anak.
  「アミルさんは5人の子どもを持っている」
    Harga pisang itu sepuluh rupiah sebuah.
  「そのバナナの値段は1本10ルピアである」

2. 前置詞句の構造はMD構造を示している。なぜなら、修飾する前置詞が、修飾される語の前に置かれているからだ。
  di kantor pos 「郵便局で」 / *kantor pos di
  dari rumah sakit 「病院から」 / *rumah sakit dari
  ke sekolah 「学校へ」/ *sekolah ke

3. いくつかの副詞は、修飾される語の前に置かれる。次の例を見てみよう。
  masih makan 「まだ食べている」 / *makan masih
  akan datang 「来るだろう」 / *datang akan
  sedang tidur 「眠っているところだ」 / *tidur sedang
    Tunggu dulu, Adik masih makan.
  「ちょっと待ってて、弟はまだ食事している」
    Paman akan datang sore ini.
  「おじは今日の夕方に来ることになっている」
    Ketika Ibu pergi, Adik sedang tidur.
  「母が行ったとき、妹は眠っていた」

  また、インドネシア語には、DM構造でもMD構造でも用いられる副詞がある。ふつう、それらの意味は同じではない。例えば、lagi, baruである。
  Adik lagi makan と Adik makan lagi とでは、意味が異なる。
    lagi makan 「食べているところだ(sedang makan)」
    makan lagi 「もう一度食べる(makan sekali lagi)、さっきすでに食べた(tadi sudah makan)」
  Ini bir baru と Ini baru bir も同じ意味ではない。
    bir baru「新しいビール(bir lamaの反対)」
    ini baru bir「これでこそビールだ(味がおいしいので、やっとビールと呼ぶことができる)」

4. サンスクリット語やアラビア語起源のいくつかのイディオムは、もともとの言語と同じMD構造を示している。
  akil balig (アラビア語)「成人、分別のある大人(sudah dewasa, cukup akal)」
    akil=akal 「知恵」, balig=cukup 「十分」
  perdana menteri 「総理大臣、第一の大臣(menteri pertama, menteri utama)」
    perdana=pertama 「第一の」, menteri 「大臣」
  purbakala 「古代(waktu dahulu, zaman dahulu)」
    purba=dahulu 「以前、昔」, kala=waktu, zaman, masa 「時、時代」


コメント(9) 

コメント 9

jaman

Badudu は、ごらんのように、インドネシア語における「DMの法則」の例外として、4つをあげています。

このうち、2. 前置詞句については、一般的には Badudu の言うように、例えば di kantor pos では di が kantor pos を「修飾」していると考えるかもしれません。しかし、生成文法では、di kantor pos のような前置詞句の「主要部(head)」は前置詞 di であると考えられています。なぜなら、rumah sakit のような「名詞句」のカテゴリーを決定する単語が、名詞 rumah であるのと同様に、di kantor pos のような「前置詞句」のカテゴリーを決定する語は、前置詞 di であるからです。

3. masih, akan のような副詞(時相詞、法助動詞?)は、何ともいえません。Adik masih makan, において masih は動詞 makan を「修飾」しているというよりも、文全体(Adik makan.)を修飾していると考えるべきかもしれません。

したがって、インドネシア語におけるDMの法則の「明らかな例外」は、1.の数詞 と 4.の外来語系イディオムということになります。

Badudu は書いていませんが、私は、もう一つ明らかな「例外」があると思います。それは、「冠詞」si および para です。Badudu がこれをなぜあげなかったのか、不明です。単なるうっかりでしょうか?
by jaman (2005-10-28 23:14) 

bali_indah_21

質問があります。
tadi pagi や tadi malam というのは
MD構造ですか?
by bali_indah_21 (2005-10-29 12:13) 

jaman

コメントありがとうございます。
なるほど、"tadi pagi" はMD構造に見えますね。
あと、"lain kali" vs "kali lain" はどうでしょうか。
さっき気づきましたが、Badudu は3.の「副詞」の例として akan や masih をあげてますが、そういう副詞ではなく、sangat, terlalu, lebih, paling のような「形容詞を修飾する副詞」は、明らかにMDに思われます。
by jaman (2005-10-29 13:46) 

bali_indah_21

"tadi pagi"で検索したら約44,700件、
"pagi tadi"で検索したら約51,800件でした。
(tadi pagiの方が多いのかな〜と思ったら逆でした)
本来pagi tadiのはずが、
なんとなくtadi pagiも通用するように
なってしまったのでしょうかね。
また、tadiは「名詞を形容する形容詞」ですから
上の1〜4にはあてはまらないのでしょうかね。
なんて、いろいろ考えてみると面白いですね。
勉強になります。
by bali_indah_21 (2005-10-29 23:20) 

jaman

>bali_indah_21さま
へえ~。pagi tadi のほうが多いんですか!
tadi の他にもこういうのはありますかね? 当然 nanti もそうですか。
tadi や nanti は、もしかして名詞かもしれません。
by jaman (2005-10-29 23:37) 

bali_indah_21

>tadi や nanti は、もしかして名詞かもしれません。
ああ、そうなんですね。形容詞とは限らないんですね。
本当に勉強になります。
by bali_indah_21 (2005-10-30 00:22) 

ine_go

ご無沙汰です。
 これは、ジャワ語の影響があるのではないかと思います。例えば、マレー語では、7時半は「pukul tujuh(lebih) setengah」なのに、インドネシア語は「pukul setengah(dari) delapan」。他に、malam mingguも同じです。
 私は、DM法則で論じるよりも各言語の世界観で論じたほうが良いのではないかと思います。ものすごく基本的な例ですが、日本語の「お湯」は、インドネシア語や英語に訳せば、単なる「hot water かair panas」ですね。日本語には「水」という語は「冷たい」という意が入っているのに対して、インドネシア語や英語は、「air かwater」はH2Oですね。要するに、ある言語は、どんな事柄に一番興味を持つかどんな事柄に一番注意を払うかによって、語の生成や語順を決めるのではと思います。話は少し飛びましたが、西洋の言葉は、伝統的にhead(copula?)とされるものは、名詞ですが、インドネシア語はひょっとしたら、そうではないと思います。ドイツの哲学者のFriedrich Ludwig Gottlob Frege(フレーゲ)は、論理学において、伝統的に論理の最小の単位として認識される名詞を否定して、最小の単位として、文そのものにしました。これに習って、例えば、lima という語があって、lima apa? と聞かれて、lima orang と答えます。lima orang apa? と聞かれてlima orang anakとなります。この順番は、例えば、「anak」という語を与えられて、anak apa?と聞かれたら anak kuda「馬の子」と答えて、更に、anak kuda yang bagaimana?と聞かれたら、anak kuda yang imut-imut(小さくて可愛い?馬の子)とドンドンと後ろから、headとされるものを修飾して行きます。Badudu先生は、T大学の客員教授の話では、英語や西洋語の文法を強くインドネシア語に当てはめようとしているんだそうです。よって、名詞をheadにするというのも無理がありませんね。
 私は、例えば、pagi tadiとtadi pagiがどっちが正しいと言われたら、どっちでも正しいのです。そして、headに成りうる部分を名詞だけに限定しないのであれば、どっちでもDMです。pagi kapan? -->pagi tadi。tadi yang mana? -->tadi pagiと。kali yang bagaimana? -->kali lain。lain apanya? lain orangではなく、lain kali(nya).[元は文?」どっちでもOK。
中庭( http://blog.melma.com/00132255/20051007093115 )
にも以前書いてあったかと思うのですが、インドネシア語の文は、-nyaが来ると、倒置も可能になって、名文句や頻繁に使用される文の場合は、-nyaの脱落を考えれば、lain kaliの形も十分合理的だと思われます。

 日本語では、どうなるのでしょうか。
 (私は) インドネシア人のアディです。
 所属のカテゴリ(大きなカテゴリ)->カテゴリのメンバー
 彼女は  綺麗な 人 です。
 所属のカテゴリ(綺麗なるものの集合体)->カテゴリのメンバー(馬や鳥ではなく、人である)
 このように考えたら、DMに成りますね。私は、句を考えることに当たって、なぜ名詞はheadに成らなければならないかを理解に苦しみます。教え子には、最近、DM法則を導入しません。まぁ、慣れれば、脳は何とか整理してくれますよ。
by ine_go (2005-10-30 12:42) 

jaman

>ine_go さま
いつもコメントありがとうございます。
lain kali は本来 lain kalinya である、というのは、目からウロコです。考えもしなかったです。その考え方で、いろいろ分析できそうですね。sangat besar も、ほんとうは sangat besarnya だったりして(?)

DMの法則について、私はインドネシア語を初心者に教えた経験がないのでわかりませんが、おそらくうまく使えば教育上の効果は大いにあると思います。日本語母語話者が、入門したばかりで saya buku とか言っちゃうことはよくあるでしょう。そういうときDMの法則について説明し、(入門の段階では)数詞のみが例外であると教えるのは、おそらく効果的です。ただ、前置詞句がDMなのかMDなのかとか、そういう議論になると、教育上はまったく意味がありませんね。tadi pagi のようなものは、perdana menteri と同様に「イディオム」として処理すれば、それでよいのではないでしょうか。

最小の単位が何であるか(?)というのは、大きすぎる議論なのでここでは書けませんが、私は逆に、ヨーロッパの生成文法や言語哲学系の人たちが「文」を想定していることに、すごく違和感があります。(そもそも「文」とは何か、という話にもなってくるわけですけど。)英語では、I ate bread. が「正しい文」であって、Bread. というのは「明らかに」主語・動詞が省略されています。またそう考える十分な根拠があります。しかし、以前から述べていますが、日本語で「パンを食べた。」というのは「明らかに」正しい文であり、この文はけっして「私は」が省略されているわけではない。少しちがいますが、インドネシア語の Saya pernah ke Jepang. という文は、けっして動詞 pergi が省略されているわけではない。そういうことを考えると、言語というのは本来「句」が最小の単位であって、英語のように主語・動詞が必ず必要な言語、日本語のように主語が必要ない言語、インドネシア語のように(ある種の)動詞は必要ない言語がある。まだうまく考えがまとまってないのですが、こんなことをちょっと考えています。
「文」ではなく、「句」の中に必ず head があり、英語・インドネシア語のように head-initial なグループと、日本語のように head-final なグループとがある、という考え方は、私は基本的に問題ない(たぶん正しい)と思いますし、その前提から論を進めることは、大いに意味があるでしょう。
by jaman (2005-10-30 15:28) 

ine_go

日本語学の立場からして、「パンを食べた」というのは、文と見なされています。日本語は誰がそれを食べたかに文の不可欠な要員として注意をしていないのです。なぜなら、主体の変化によって、動詞の活用変化が無いからです。そして、スペイン語では、例えば、come en la restaurante.(レストランで(彼・彼女)が食べる)という文も主語が無いのです。 ラテン語も同じだと思います。しかし、上記の文では、日本語としても、スペイン語としても十分に話者同士が「理解」出来ます。したがって、私は、文というのは「十分に理解」出来る最小単位の情報であると思います。それは、言語によって、異なっているのです。ただ、「十分に理解できる」というのは、まだ少し定義しなければならないと思います。これは、文脈や超文節音素(イントネーションなど)を配慮しなければならないのです。
 sangatは、まだ考えたことが無いのですが、terlaluについて少し考えたことがありますが、市販の教科書では、terlaluは単に 英語の「too」か日本語の「-しすぎる」としか書いてありませんが、この考え方に沿って論じれば、何かインドネシア語は英語と同じかと思われがちですが、terlaluは、本来、動詞だということは忘れられています。動詞だと考えれば、「Nasinya terlalu banyak(御飯は多すぎる。)」は「Dia makan banyak(彼は多く食べた。)」と構造が似通っている。「主語・動詞・副詞」。その他に、「luar biasa(もの凄く)」の場合、luar biasaの次に来る形容詞の後は-nyaが付いた形のほうが自然。
 
by ine_go (2005-10-30 23:44) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

124 【初級】文法125 【中級】単語 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。