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前置詞 (3) [正しいインドネシア語]

 di, ke, dari の、その他の使い方を見てみよう。

 この三つの語は、代名詞接尾辞 -ku, -mu, -nya といっしょに使うことはできない
 *diku 「私に」、*dimu 「君に」、*dinya 「彼に」、あるいは *keku 「私に」、*kemu 「君に」、*kenya 「彼に」と言うことはできないのだから、*dariku 「私から」、*darimu 「君から」、*darinya 「彼から」と言ってはならない。dariku, darimu, darinya という言い方は、詩の中でのみ可能である。それは、詩人にはふつう、詩を作る上でのある種の自由さ、licentia poetica (詩の自由)とでも言うべきものが与えられているからだ。詩人はしばしば、詩を作るときの語句や韻律上の必要から、やむをえずことばのきまりを破る。しかしふつうのことば、すなわち散文では、そのような言い方は許されていない。

 そのような言い方では、dari は daripada に変わる。つまり、
*dariku 「私から」ではなく、daripadaku または dari saya 「私から」
*darimu 「君から」ではなく、daripadamu または dari kamu 「君から」
*darinya 「彼から」ではなく、daripadanya または dari dia 「彼から」

例文:
 Nasihat yang saya terima daripadanya akan saya jadikan pedoman dalam hidup saya.
 「私が彼からもらったアドバイスは、私の人生における指針となるだろう」
 Selain daripadamu, dari siapa lagi aku menerima pertolongan?
 「君からではなくて、他のだれから私は助けてもらえるのだろう?」

 現代インドネシア語では、dari をしばしば「持っている」または「所有関係にある」という意味で用いている例に出会う。例えば、*nama dari kota ini または *nama daripada kota ini 「この町の名前」、*mobil dari ayah saya または *mobil daripada ayah saya 「私の父の車」。そのような dari や daripada の使い方は、インドネシア語のきまりに合っていないことは明らかだ。インドネシア語では、所有関係を示すには、二つの名詞を順番にならべるだけで十分である。例えば、nama kota 「町の名前」、mobil ayah 「父の車」、pintu rumah 「家のドア」。

 上で例として挙げたような、dari や daripada といった語による所有関係を明確に示すための道具(言語要素)使用は、オランダ語や英語構文の影響を受けている。この dari や daripada は、明らかに英語やオランダ語の文字通りの直訳である。例えば、
  the name of this town = *nama dari(pada) kota ini 「この町の名前」
  de auto van mijn vader = *oto dari(pada) ayah saya 「私の父の車」
 インドネシア語では、このような dari や daripada は使うべきではない。次のような例も同様である。sampul buku 「本のカバー」、kaki meja 「机の足」、baju Ibu 「母の服」、atap rumah 「家の屋根」、kelereng Udin 「ウディンのビー玉」。

 こういった構文は、外国語をインドネシア語に翻訳するときにあらわれると考えられる。翻訳者が、インドネシア語の語句や文構造をよくマスターしていないために、外国語的なインドネシア語の言い方や表現が生まれる。そして、外国語をマスターしていない別の人が、そのような誤った言い方をまねて、同じ間違いを犯してしまう。このようにして、誤ったことばが広まっていくのである。


コメント(3) 

コメント 3

bali_indah_21

こんにちは。いつも更新ありがとうございます。
この「正しいインドネシア語」シリーズも
楽しみに読んでいます。
新しい発見があり、とても勉強になります。
ところで、2行目の「代名詞接尾辞 -ke」の
「-ke」は「-ku」ですよね?
これからもご指導よろしくお願いします!
by bali_indah_21 (2005-09-07 09:41) 

jaman

ご指摘ありがとうございます。
う~む、やっぱり自分では気づかないものですね。
これからも、ささいなミスであっても、お知らせいただけたらうれしいです。

あと、もし最近いらっしゃった方で、むかしの記事の誤りや疑問等があったら、遠慮なくコメントお願いします。
by jaman (2005-09-07 21:35) 

INJ albertus

Ibu Ari と聞いた時に、アリ婦人なのか アリのお母さんなのか まだ二つの可能性があります。インドネシア語が母語とする人から、やはり、違う意味なのに、形やイントネーションの区別が無ければ困ります。それで、会話では、Ibu Ariは、大体アリ婦人で、Ibunya Ari は アリのお母さんです。そして、例えば、「友人の彼女のお父さんの妹」を言う時に、Adik ayah pacar teman saya となるんですが、パッと頭に出てこないんです。一つの可能性として、「Adik ayah dari pacarnya teman saya」。確かに、通時的な研究は大きな成果がありますが、dariを単なる「-から」とだけ訳さないで、「出発点」などの「起源的」な意味を持つと言えばよいのではないかと思います。所属や所有は、ある意味では、「起源的」つまり、所有物の起源は所有者にあると考えてよいのではないかと。そして、その文を生成する以前の段階で、dariの「起源的」な意味を持っている訳ですから、dariやdaripadaも後に「の」という意味にも展開できると思います。
  言葉はご存知の通り、変わっていく。散文や詩と並べて、翻訳物も作品の一つですから、モデルがファッションの流行をリードするように、翻訳作品も新語・新文の生成をリードすると思います。そして、翻訳作品の中のある語は、もし、広く言語ユーザーに使われていれば、ある意味では、その言語のブラックボックスから、もう一つ意識できる言語のルールが見えてくるのではないかと思います。この意見に対してどういう風にお考えでしょうか。私は、ラングつまり言語のユーザーが自然に意思疎通できる表現は、言語のブラックボックスだとして、そこに、詩や散文(翻訳作品も含めて)をインプットすることによって、ある言い方がその言語として可能かどうかをユーザーに任せるべきだと思います。
by INJ albertus (2005-09-09 00:31) 

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